現在は「日本酒ブーム」といわれている。女性や若い世代の日本酒ファンが増え、日本酒専門のバーまで登場している。国内のみならず、海外でもブームが到来しているという。
それにもかかわらず、酒蔵は減少の一途をたどっている。1970年に全国で3,533カ所だった酒蔵は、令和2年度には1,130カ所になってしまった(国税庁調査)。
そのような厳しい業界の中で、茨城県古河市で唯一の酒蔵として地酒「御慶事(ごけいじ)」などを製造しているのが青木酒造株式会社である。代表取締役青木滋延氏と、彼の娘で専務取締役の青木知佐氏に、1831(天保2)年創業から続く酒蔵を守り、次の世代に引き継ぐ思いなどを伺った。
インタビュアー:安東 裕二
青木滋延
あおき・しげのぶ
青木滋延
昭和31年4月生まれ。成城大学卒業後、姫路の酒造にて酒造・経営全般を学ぶ。その後、7代目蔵元として青木酒造を引き継ぐ。地元の伝統産業を守り、次世代へ継承していくために、酒蔵としてもさまざまな変革をすべきであると感じている。
青木知佐
あおき・ちさ
青木知佐
平成2年2月生まれ。自治医科大学卒業後、看護師として、付属大学病院に勤務。職場の先輩の一言で 家業の戻る事を決意し、現在は7.5代目として8代目予定の弟にバトンを渡すべく 日々奮闘中。
目次
伝統を引き継ぐために変化する
―本日はよろしくお願いします。まず、どのような思いで経営をしているかお聞かせください。
知佐氏:経営理念として掲げているものは特にありませんが、家族経営ということが軸にあります。それぞれの時代で、造り酒屋として地元に残していくことを考えて仕事を続けてきました。地元の人に老舗と認めていただいている以上、何としても次の世代につなげ、生き残っていかなければいけないと肌で感じています。単に酒を造っているだけではなく、こちらからお客さんのほうに一歩踏み込んだアクションは常に起こしていく必要があると思っています。
―伝統を引き継ぎながらも、変えている部分もあるのですね。
知佐氏:創業当時から今まで、時代の流れは大きく変化してきています。昭和までは、ウイスキー、酎ハイ、ワインなどはそれほど流通しておらず、酒といえば日本酒という時代が続いてきました。今の時代は全く違います。日本酒は特別なときに飲む物というイメージとなり、香り、味わい、飲みやすさなど、「おいしさ」の価値基準も変わってきています。
―求められるものに合わせて、造り方も工夫してきているのですね。
知佐氏:「おいしさ」だけでなく、ラベルデザインも変化させています。若い人や女性に身近に感じてもらえるよう、おしゃれで今風なものを意識しています。ただし、いきなり全て変えると既存のお客さまに違和感を与えてしまうので、「季節もののパッケージ」として販売しています。酒蔵見学や日本酒のテイスティングなどのイベントも行っています。
滋延氏:酒造りというと、昔ながらのイメージがあると思います。そういうことからも脱却しなければ生き残れません。ですから私は表には出ず、娘を前面に立て、いろいろな取り組みを任せています。同業ばかり見ていると視野が狭くなります。弊社のテイスティングルームは、海外のワイナリーに行った際にインスピレーションを受けて始めました。
家族経営と地酒蔵という付加価値でピンチを切り抜ける
―経営の転換期はたくさんあるとは思うのですが、大きなターニングポイントがあればお聞かせください。
知佐氏:一番大きかったのは、ここ7~8年です。「御慶事 純米吟醸 ひたち錦」が、2015年に日本酒の出品数最多の市販酒コンテスト「SAKE COMPETITION 2015」で純米吟醸部門、第3位に入賞しました。2016年には、IWC (インターナショナルワインチャレンジ) SAKE部門 純米吟醸カテゴリーで最高位となるトロフィー賞を受賞、さらにU.S. National Sake Appraisal(全米日本酒歓評会) 吟醸部門で、最高位のグランプリを受賞しました。
―素晴らしい成果ですね。その後の経営はどのように変化してきたのですか?
知佐氏:もともとは古河市内で地酒として消費されていた物が、鑑評会や大きいコンペで評価を受けて、首都圏や海外にも販路が拡大していきました。取扱店が増え、百貨店での販売会に声がかかることも増えました。
―今までの長い歴史の中で、ピンチや踏ん張りどころだったことはありますか?
滋延氏:ずっとピンチですよ(笑)。そもそも酒屋は利益が出にくい商売の代表です。国産の米を仕入れて、それを酒にしているからです。江戸時代から続く有名どころの酒屋は、材木商や金融業などの別の商売を持っていました。ですから、サントリーもキリンもアサヒも「総合酒類メーカーを目指す」と言いながら、日本酒にだけは手を出さないのです。日本酒の需要も酒屋の件数も、ピーク時の3分の1になっています。
―そのような中で御社はどうして日本酒だけでやってこられたのですか。
知佐氏:古河市内には、他に酒蔵は何軒かあったのですが、昭和時代に入って酒が売れなくなってから廃業した所が多かったです。弊社は家族経営で規模が小さかったので、結果的に生き残りました。大きい蔵は回していくのが大変なのです。
滋延:今回のコロナ禍でもそうですが、大きい所ほど経営が行き詰まってしまいます。小さい所は経費が掛かっていない分、何とかしのげる稼業なので生き残れるのです。
―規模が小さいだけではいまの時代はなかなか生き残るのが難しいように思います。
滋延氏:日本人には「良い物をより安く」という価値観があるので、安くすることには一生懸命になるのですが、もうその価値観では駄目なのです。特に酒屋はずっとそういう価値観を持ってきました。日本人が最も苦手な付加価値を付けるための努力をしていかないと生き残れない時代です。
知佐氏:弊社は地酒蔵として続けていくところを付加価値として会社を回してきました。小さい酒蔵だからこそ、地元の人たちに飲んでもらわなければならなかったので、地酒という位置はずっと変わらないと思います。
柔軟で自然な形の事業継承で長寿企業に
―長寿企業を取材すると、継承の仕方もいろいろあって興味深いです。知佐専務の場合はどのように受け継いできたのでしょうか。
知佐氏:父が7代目、弟が8代目になる予定です。私は中継ぎの7.5代という感じです。私は弟と7歳離れているので、別の仕事をしていて一足早く戻ってきました。私の場合は、「あなたは酒蔵を継ぐのだよ」と言われて育っていないのです。前職は看護師でした。弟は逆に「あなたは継ぐのだよ」と言われて育ってきているので、蔵に戻って働くイメージは恐らく持っていたと思います。
私が戻ろうと思うようになったのは、社会人になって実家が江戸時代から続く酒屋だと言うと「すごいじゃん。戻らなくていいの?」と言われることが増えたためです。次第に引き継いでいかなければいけないと感じ、それほど深く考えずに戻ってきました。社長は「やりたいようにやっていい」と言うので、私なりのやり方をしています。
社長と仲はいいのでよく話し合います。酒造りをする職人と、経営者の父と、その間の私でコミュニケーションを取りながらやっています。「これは引き継ぎなさい」とか「これは守りなさい」とは言われずに、自然と身に付いていったという感じです。
―長く続いている会社には、頑固おやじの職人さんが多いというイメージがあるのですが、とても柔軟そうですね。
知佐氏:業界の中では比較的柔軟かもしれません。例えば「オリジナルのブレンド酒を出してみませんか」といった企画などの声を掛けていただくこともあります。私が表に出ているのと、60代の父を相手にするのとでは、声の掛けやすさも違うのでしょう。新しいことに取り組んでいくことに対しては、私が表に出ることはプラスになっていると思います。
―「こうでなくては駄目だよ」というよりも、自然な形で承継していく形になっているのですね。
知佐氏:そうですね。私から弟の代に引き継ぐことになっても、性別も違うし、世代も違うから、少しずつ違うところはあると思います。「俺のときはこうしよう」とか「姉のこのやり方は良かった」と感じるでしょう。家族だからこそ、仕事が終わって食事を一緒に取る中でコミュニケーションを密に取れます。
敷居を下げながらクオリティーを上げる
―経営の構成はどうなっていますか?
知佐氏:家族以外には、地元のスタッフが3人です。酒造りのシーズンは半年間だけですので、その間だけ季節雇用をしています。私は何でもやります。ラベル貼りもするし、お客さんへの集金にも行くし、配達もするし、イベントにも行きます。職人は酒造り、社長は経営、その間を埋めるポジションが私や弟になっています。
―酒のクオリティーを維持し続けることは簡単ではないと思うのですが、秘訣は何でしょうか?
知佐氏:日本酒の品質は、杜氏(とうじ)の腕に懸かっています。ただし、杜氏が考えるおいしい酒と、社長や私が蔵として売りたい酒の考え方が違うとうまくいきません。互いのコミュニケーションをきちんと取り、信頼関係を保っています。秋口に取れたお米を使って、3月くらいまでの半年間で1年分を仕込みます。夏の間はボトリングされた物を販売しているだけで、酒造りはしていません。冬が酒造りに向いているシーズンだからです。
滋延:品質管理のためのデータの蓄積は1分単位で行っています。また、便利なものは自動化のシステムを取り入れていますが、品質維持が本当に信頼できてから使用するようにしています。
―杜氏の世代交代も大変ではありませんか?
知佐氏:今の杜氏は8~9年前に代わりました。58歳ですが、80年現役の業界ですので「まだ若いねえ」と言われています。今の杜氏も柔軟性があって、前任者からいいと思ったところは引き継いでいますが、自分の考えとは違う部分は変えています。杜氏の世界では「ここは変えないでくれ」という部分が多い中で、社長が「あなたがおいしいと思うように、好きなように変えていいよ」と言って後押ししました。それがありがたかったと言っています。
―さらにその先の技術継承はどのように考えていますか?
知佐氏:今の杜氏の下で働く蔵人や弟が、その技術を引き継いでいく形になると思います。基準となる数字がなければ分からないので、発酵の管理をデータ化しています。そうすることで、失敗したときの原因も分かりやすくなりますし、後世も「この発酵過程の酒が良かった」と振り返ることができます。
ずっと同じ味では売れません。良くなっていかなければいけません。弊社のように賞を取ると、お客さんがとても期待してくれるので、受賞したときの最高のパフォーマンスを維持しないとお客さんが離れてしまいます。良いときこそ、設備も良い物にしようということで、ここ何年かは新しい設備を導入しています。
―今後のテーマ、目標、ビジョンなどがありましたらお聞かせください。
知佐氏:何でも手に入る時代になったからこそ、地元の人に地酒を意識してもらうことは重要だと思います。遠い所から手を伸ばしてもらうことも大切ですが、「うちの地元ではこういう酒を造っている」と胸を張れる物が必要だと感じています。東京や海外で評価をもらうことも、テレビで紹介されることも、地元の人が誇りに思ってもらうきっけかけになりますから、そういう接点は増やしていきたいと思っています。
敷居を下げて身近に感じてもらいつつ、クオリティーを上げて「やっぱりおいしかった」と感じてもらえるようにしたいです。お店に行っても雰囲気が良くて、人柄も良くて、酒もおいしかったと思ってもらえるようなところに落とし込んでいきたいです。口で言うほど簡単ではありません。敷居を下げながら敷居(クオリティー)を上げるというようで少し難しいチャレンジではありますが、頑張っていきたいです。
―本日は大変貴重なお話を誠にありがとうございました。
青木酒造株式会社
〒306-0023 茨城県古河市本町2丁目15-11
TEL:0280-32-5678
FAX:0280-32-0655