明治17年に鍛冶業からスタートし、明治32年から蒸気ボイラーの製造、大正15年より消防自動車を生産している小池株式会社。
現在、北関東を中心に各市町村、自治体、民間への納入実績を持ち、高い評価と信用を得るに至っている。
人命と財産を守るという消防自動車メーカーとしての社会的使命と責任を果たすために尽力している代表取締役小池裕之氏に、時代とともに変化してきた事業の変遷や、経営のポリシーなどを伺った。
インタビュアー:安東 裕二
小池裕之
こいけ・ひろゆき
1959年3月生まれ。茨城県立古河第三高等学校卒業後、1980年5月小池株式会社へ入社。一貫した経営ポリシーを持ちながら、時代の変化とともに新規事業に取り組み、成功へ導いている。
目次
- お客さまのためになることをお約束して実行する
- 町民の安全のシンボルとなった消防車
- 外部の血を入れることの重要性
- オイルショック、道路運送車両法改正、規制緩和と危機は続く
- 小さな会社の中にできる壁を取り払う方法
- 今の責任をしっかりと果たし、バトンをつなげていきたい
お客さまのためになることをお約束して実行する
―本日はよろしくお願いします。まず経営理念からお聞かせください。
小池氏:月並みですけれども、「お客さまのためになることをお約束して実行する」という実にシンプルなものです。ここで言う「お客さま」とは、仕入れ先やユーザーだけではなく、銀行なども含めた取引をする全ての方を指します。
できない約束はせず、約束したことは果たすべく努力をするということです。代々、そういう理念で経営してきています。もちろん消極的になって何でも「できません」と言っていては会社がつぶれてしまいますから、「約束したことは努力して必ず果たす」というポジティブな考え方だと思ってください。
―時代の変化によって柔軟に変えてきた部分と、これだけは変えてなかったというところはありますか?
小池氏:明治17年、私の曾祖父に当たる小池宗次郎が古河町西片町に鍛冶業「鍛冶宗」を創業して弊社はスタートしました。私は6代目の社長となります。鍛冶屋というと名刀を作るというイメージがありますが、そんなしゃれたものではありません。野鍛冶といって、包丁や農具など誰もが使う一般的な金物を作っていました。
当時、古河市は製糸業が盛んで、動力源が蒸気のエネルギーでした。そこに目を付けて、明治32年に蒸気ボイラーの製造を開始します。そこからスチームエンジンなど、いろいろな物を作りだすようになりました。明治36年には工場を古河町台町に移転し「小池鉄工所」と改称しました。
大正15年からは、時代のニーズに応えて消防ポンプ自動車の製作を開始します。当時の日本には自動車自体ありませんでしたから、全て輸入車種を使っていました。この頃は蒸気ボイラーの圧力容器と消防車の2部門がありましたが、今では圧力容器は扱っておりません。このように時代とともに変化してきましたが、「お客さまのためになることをお約束して実行する」という理念は変えていません。
町民の安全のシンボルとなった消防車
―このような自動車は、どのような経緯で輸入するようになったのですか?
小池氏:当時の日本は、梁瀬長太郎氏が興した梁瀬商会(現・株式会社ヤナセ)や、中谷保氏が創業した安全自動車株式会社の前身となる会社が、輸入車の代理店をしており、シボレー、キャデラック、フォードなどが輸入されていました。弊社も彼らを通じて車を仕入れていました。現在はヤナセとの付き合いはなくなってしまいましたが、安全自動車とは今でも取引はあります。
―当然ですけれども、この消防車は普通に輸入できたのですよね。
小池氏:もちろんです。
―町の人々は、この消防車を見てどう感じていたのでしょうか?
小池氏:当時の消火の道具といえば、竜吐水でした。これは水を入れた大きな箱の上に押し上げポンプを備えたものですが、2階建てや3階建ての大きな建造物が増え、密集度合いも高くなってきたので、人力による消火活動に限界が来ていました。そこで動力によって消火ができる消防車を、当時の古河町が予算を組んで購入しました。当時の町民にとっては、この消防車は驚きとともに、安心のシンボルだったのではないかと思います。
―この当時から消防車は赤色だったのですか。
小池氏:いいえ。いつから赤が指定色になったのかは定かではありません。かなり昔から赤色に統一されたのでしょうが、90年前には赤ではない消防車もあったと聞いています。当時は朝鮮半島や台湾などにも納入していました。
外部の血を入れることの重要性
―消防車があまりにも格好いいので、話がそちらに集中してしまいました(笑)。昭和になってからは、どのような変遷をたどってきたのですか?
小池氏:昭和5年には、モータリゼーションの動きを捉えて、消防車やボイラーを作る製造業の横で、ガソリンスタンド、自動車修理および自動車部品販売も手掛けていました。祖父の系統がこちらの部門を独立させて、現在の株式会社三和トヨペットになりました。今は、こちらも私が兼務して社長をしています。いわば小池鉄工所は本家、三和トヨペットは分家という形になるかと思います。
その他にも、「興行」いわゆるショービジネスも手掛け、アルゼンチンタンゴや菅原洋一のショーをプロモートしたこともあります。いろいろなことをしてきたのですが、昨年事業を集約して、現在残っているのは自動車関連の事業だけです。しかし、常にお客さまが必要としていることをしっかり捉えて、約束したことはきちんと果たすという姿勢は一貫していました。
―ボイラーを作っていた頃は、その先に消防車まで見据えていたのでしょうか。
小池氏:いや、それは違うでしょう。計画の中に、そういう物を手掛けようということはなかったと思います。もともと鍛冶屋で職人気質なので、エンタープライズ的な発想はおそらくなかったはずです。いい人材に巡り会えたということだと思います。
新井巳三郎さんという方が、技術開発を行って小池鉄工所を開いた功績者です。会社の発展の礎を築いた方です。この方がいたから、鍛冶屋からボイラー製造への転換も図れたのでしょうし、消防車製造へとつながることができたのでしょう。私の祖父や父は、この方がいなかったら今の小池はないと言っています。100年前の企業であっても、やはり外部の血を入れるということは大切なことだったと思っています。
柔軟に変化している部分もあるし、職人としてのものづくりのクオリティーを上げていっているという両軸がしっかりとあったということです。昔の方ほど、そういうことをしっかりやっていたと思います。
オイルショック、道路運送車両法改正、規制緩和と危機は続く
―ご存じである範囲で結構ですが、これまで最もピンチだったと思うことは何でしょうか。
小池氏:昭和47年、48年、ちょうどオイルショックがあった頃です。この頃、日本国内の消防車需要が一気に下がりました。大手から弊社のような小さな会社まで、相当苦戦をしたそうです。オイルショックで税収が上がらなくなって、各自治体の消防予算が減ったということが原因だと思います。当時、小池鉄工所も倒産しそうになりました。私は中学生でしたからよく分かりませんでしたが、本当に大変だったそうです。いつ不渡りを出してもおかしくない状態だったと聞いています。
そのときに父が代表権を持つ会長になって、この危機を回避しました。私たちのほうは分家筋でありますけれども、本家の窮状を助けてほしいということで息子(私の父)たちに嘆願したそうです。三和トヨペットの信用保証や債務保証などいろいろな対策を講じて、小池鉄工所を存続させました。
三和トヨペットのほうのピンチは、1995年の道路運送車両法の改正で、車検の期間が延長されたことです。われわれ整備を担当している業者は相当厳しくなりました。
その後、小泉内閣による規制緩和も大きなピンチでした。整備技術を習得した者がいれば、ガソリンスタンドだろうが、農家のガレージだろうが、車検できてしまうようになってしまいました。それまでは規制によって業界の技術水準を保ってきたというのが私の理解です。むろん、それは既得権益を受けている者の言い分だと言われればそれまでですが、結果的に技術水準を下げてしまっているのではないかと危惧しています。
小池氏:例えば看護師、介護福祉士、保育士などは「給料を上げるべき」と国会で議論されることがあります。しかし整備士の給料水準はそれ以下です。なぜ整備士の給料が上がらないのかといえば、規制緩和によって修理・整備工場が需要を超えて増えてしまったからです。これでは、いずれ技術水準や安全基準にも影響が出てしまうでしょう。これは今そこにある危機なのです。
その20年間に起きた阪神淡路大震災、東日本大震災、リーマンショックなども、道路運送車両法の改正と規制緩和に比べれば、大した影響はありませんでした。
小さな会社の中にできる壁を取り払う方法
―経営について、特に意識している点はどのようなことでしょうか。
小池氏:現在、デジタルトランスフォーメーション(DX)が叫ばれていますが、弊社の場合は人間が行う仕事がメインですからあまり影響がありません。影響があるとすれば、受発注システムやeコマース、総務・経理部門などになると思いますので、その点については過不足なく進めています。
整備部門では、必要項目が変わってきます。自動車は自動運転を含めて技術革新は進んでいますから、車検の検査項目が変化していくのです。先進システムが誤作動を起こさないか検査しなければなりません。
あと2年もするとエーミングが本格的に規則化されます。エーミングとは、先進安全装置に使われている電子制御システムを正しく作動させるための校正・調整作業です。この精度を車検のときに計らなければなりません。そのためにはエーミング試験場を工場内に用意する必要が出てきます。そうでなければ、高いお金を出して設備を有する業者にアウトソーシングするしかなくなります。また、そういう設備を使いこなすだけのノウハウをきちんと学んだ社員がいなければやっていけません。
―時代についていけない企業は淘汰されてしまうということですね。
小池氏:そうです。設備にしても、従業員のスキルにしても、時代の要請に応えていかねばなりません。しかし、それだけでも駄目です。われわれのような小さな会社に必要なことは「家族的な経営」だと思っています。
私が理想とするのは映画『男はつらいよ』シリーズのタコ社長です。まさに社員と家族のように触れ合っています。「家族経営」ではなく、「家族的な経営」です。家族経営の会社では、社長の奥さんが専務といったケースが多いですが、弊社では祖父も父も一切会社の仕事はさせませんでした。私もそうです。もちろん報酬も取ったことがありません。世の中には、仕事もしていない家族に報酬を与えるといった逆のケースが多いようです。弊社の社員はそれをしっかりと理解しています。私も理解させる努力をしています。
小さな会社の中に壁ができるとしたら、経営陣の家族と従業員の間ぐらいでしょう。しかし、そこからおかしくなることが実に多いのです。家族経営の欠点はそこです。その壁が弊社にはありません。
もちろん家族経営の利点もあるでしょう。利点と欠点のどちらを重視するかということで、弊社は欠点のリスクマネジメントのほうを取っているということです。
今の責任をしっかりと果たし、バトンをつなげていきたい
―今後の方向性をお聞かせください。
小池氏:私は63歳になります。社長歴は32年になります。長男は弊社の社員ですが、役員でもなく、まだ事業を引き継ぐ域には達していません。ですから、23年前に採用した社員を、昨年常務取締役に就任させ、5年以内には継承していこうと考えています。彼は親族ではなく赤の他人です。小池株式会社のほうは、私から見ていとこの子どもに当たりますが、彼が常務取締役になっていますので、次期社長になってもらうつもりです。
5年先の経営計画については、5年後には私は退任していますから、私は中心になっていません。求人に関しても私は一切関与しません。私がその人の将来に責任を持って雇うわけではないからです。
―事業承継の際に、あれもこれも全部受け継ぐという話が多いですが、真逆なのですね。
小池氏:どちらの会社にも大株主を存在させていません。絶対多数を占める株主は1人としていないのです。最大株主の私ですら、4分の1も持っていません。株は分散しています。田舎の小さな零細企業でこういうことをしている所は少ないと思います。大抵は大株主が社長と妻という感じでしょう。
ですから、先ほど述べたような事業承継は夢物語ではなく可能なのです。可能にするべく、ハードルを一つひとつなくしてきているのです。そうしないと銀行や取引先も納得できません。なぜ私がこういうことをしているか、各担当者に口でも伝えています。私がいずれ事業承継をしても「社長、困ります」と言われない自信があります。
―事業承継の際に、あれもこれも全部受け継ぐという話が多いですが、真逆なのですね。
小池氏:そもそも私が社長をやりたくなかったのですが、やらざるを得なかったのです。ですから、「俺が、俺が」というスタイルにならなかったのだと思います。もちろん、やる以上は一生懸命やってきたつもりです。責任感だけはあります。社長としての責任をしっかりと果たし、早く次の人につなげていきたいと考えています。
―本日は大変貴重なお話を誠にありがとうございました。
小池株式会社
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