【株式会社岡永】「地酒市場」を創出した老舗卸 蔵元、酒販店、愛飲家を結ぶ

1884(明治17年)に創業し、日本酒を中心とした卸会社として各地の地酒を全国に流通させている岡永(東京都中央区)。1975年に蔵元、酒販店、愛飲家を結んだ「日本名門酒会」を立ち上げ、日本酒市場の中に「地酒市場」という新たなマーケットを創出しました。4代目社長の飯田永介氏に、会社の歩みや会のビジョンを伺いました。

飯田 永介

いいだ・えいすけ

株式会社岡永 代表取締役社長 兼 日本名門酒会本部 本部長。
株式会社岡永に入社し、1994年に代表取締役 社長就任。その後、日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会(SSI)副会長就任、長野県原産地呼称管理委員会・日本酒官能審査委員会委員就任、日本名門酒会本部 本部長就任、料飲専門家 団体連合会( FBO )評議委員就任、SSI 認定)名誉 唎酒 師酒匠 認定、東京商工会議所中央支部(評議員)食・宿泊分科会 副分科会長就任、公益法人日本橋法人会(理事)広報委員長就任の経歴を経て、現在は日本名門酒会の実質的な指揮にあたっている。

目次

  1. 醤油、味噌、日本酒の小売りとして創業
  2. 卸会社としての主体性を守るため日本名門酒会を設立
  3. 「日本酒の復興」へ 酒販店での試飲販売をスタート
  4. 大切なのは「将来にどうつなげられるか」
  5. 日本酒の価値を「カタチ」にして広める

醤油、味噌、日本酒の小売りとして創業

―まずは、御社の事業概要についてお聞かせください。

日本酒を中心とした卸会社で、全国約1500の酒販店に各地の地酒を流通させるのが主な仕事です。約200の日本酒や本格焼酎の蔵元のほか、国産ワインメーカーや地場の食品を製造している50社ほどから商品を仕入れ、一部の百貨店やスーパーにも商品を納めています。

創業期は醤油、味噌も扱っていたと伺いました。

当初は小売りでしたが、祖父の飯田紋治郎(2代目)が卸売りに転換しました。酒の卸売りとしては後発でしたが、東洋醸造(1992年に旭化成工業と合併)の特約店となったのを皮切りに、取引先を少しずつ増やしたようです。

戦中、戦後は日本酒の生産統制が敷かれたため、相当な困難もあったかと思います。

日本酒を卸す仕事の代わりにできることをしながら、何とか凌いだと聞いています。それでも祖父は、闇商売には絶対に手を出さないと決めていたそうです。祖父は曲がったことが大嫌いで、キセルがわずかに曲がっているのも許せないと言われたほどの人。晩酌をしながら先代の父(飯田博前会長)たちに商売のイロハを説き、「常に誠実であれ」といった心得を教え込んだと聞いています。

なるほど。御社が日本酒の卸売り業界のリーディングカンパニーに成長されたのも、よく分かる気がします。

現在残っているのは総合的な酒類の卸会社が多く、日本酒をメインに扱っているのは東京都内で2、3社でしょうか。弊社が日本酒の卸会社として成長したのは、1975年に全国の蔵元、酒販店に呼びかけて日本名門酒会を設立したことが大きかったですね。

卸会社としての主体性を守るため日本名門酒会を設立

日本名門酒会を立ち上げたきっかけは何だったのでしょうか。

岡永は高度経済成長期に食品部門の売り上げがどんどん伸び、社員も支店も増えました。ところが、売れれば売れるほどメーカーの価格競争のしわ寄せを受けて利益が出なくなり、1972年頃には八方塞がりに陥ってしまったんです。創業から現在までの歴史を振り返っても、最大のピンチだったと思います。

当時はいくつもの大手食品メーカーと特約を結び、大量の商品をスーパーに卸していました。しかし、気が付けば卸会社としての主体性を失い、配送会社のようになっていたというわけです。

そこでもう一度、卸会社としての原点に立ち返り、流通の主導権を取り戻そうと立ち上げたのが日本名門酒会です。言い換えれば、我々がイニシアチブを取れるのは日本酒しかなかったということですね。

御社では、もともと地酒を扱っていたのですか。

地方の蔵元と最初に取引をしたのは1955年前後だったと思います。ただ、日本名門酒会を立ち上げた頃も、地酒は全く注目されませんでした。

米不足が深刻化した戦後は、酒造米を使わない低品質の三倍増醸清酒(三増酒)が普及し、人々が豊かになった高度経済成長期には日本酒離れが進んでいました。寿司店には国産ウイスキーのボトルがずらりとキープされ、それが当たり前の光景だったわけです。

そのような状況に危機感を持ち、隠れた名酒を発掘しながら流通させようと考えました。

日本酒を復興させようとも考えたのですね。

そのために、市中の酒販店を強力な専門店に変えていかなければならないと考えました。「酒屋の酒知らず」ではありませんが、大手銘柄が市場を寡占していた当時は日本酒の知識が乏しいまま商品を売っていた酒販店が多く、知識が必要という意識も希薄だったと思います。そのままでは、いくら良質な地酒を流通させたとしても酒販店の力を発揮できないと考えました。

「日本酒の復興」へ 酒販店での試飲販売をスタート

日本名門酒会は、どんな活動から始めたのですか。

最初に取り組んだのは、酒販店での試飲販売です。チラシを配って地域のお客様に集まっていただくよう促しました。まずは12銘柄をそろえ、50店ほどから始めたのですが、酒販店にもお客様にも「日本酒はこんなに多くの種類、味わいがあるんだ」ということを知っていただけたのは大きかったですね。

日本名門酒会の設立を機に、御社の卸売り業務も食品から日本酒へとシフトしたのでしょうか。

はっきりとシフトし、原点の日本酒を育てることに集中しました。父が不退転の決意で大手食品メーカーに特約を返上し、量販店、スーパーから撤退したんです。

当時は大量生産、大量消費、大量宣伝が当たり前だったので、社内の混乱は若干あったと思います。ただ、日本名門酒会の試飲販売は集客力があり、百貨店の催事などでも評判が上々でした。だから、社員も生き生きと働いていたのを覚えています。

御社にとっては原点に返るタイミングだったとともに、大きな変革期でもあったわけですね。ご自身が家業を継がれるというのは、その頃から既定路線だったのですか。

学校を出たのは日本名門酒会が発足したばかりの時期で、役員や幹部から「早く来い」と促されました。父は何も言いませんでしたが、幼少期から何となく「自分が家業を継がなければ」という思いがあったので入社しました。振り出しは支店の倉庫業務で、地方での営業も経験しました。

-1994年に社長に就任された際、先代から託されたことはありますか。

特になかったですね。もっとも、会の活動が軌道に乗っていた中でのバトンタッチだったので、何かを変革しなければという気持ちもあまりありませんでした。

大切なのは「将来にどうつなげられるか」

会の活動は、その後も順調だったのでしょうか。

1995年以降、国民の日本酒離れが加速しました。それまでは大手銘柄の落ち込みを地酒がカバーした形でしたが、日本酒の消費量そのものが目に見えて落ち込んだのです。そこで、一年間を“季節酒”の展開で組み立てる「一年52週の生活提案」を打ち出しました。

代表的な取り組みは、1998年に始めた「立春朝搾り」という企画です。2月4日に搾った日本酒を、その日のうちにお客様に届けるもので、2023年は全国43蔵が参加しました。蔵元、酒販店がみんなでできる取り組みで、会を象徴する活動と考えています。

日本酒、流通業界が将来どうなるか、どうしたいのかをイメージしなければならないということですね。今売れるものに目を向けるのも大事ですが、将来にどうつながっていくのかをイメージできないことはしたくないと考えています。

サステナブル経営を重視されているのですね。

今はSDGsが注目されていますが、それをアピールする蔵元はほとんどありません。わざわざ強調する必要はないという方もいらっしゃるかもしれませんが、今まででやってきたことや次の取り組みについて発信し、お客様との共通言語化をきちんと図ることは意味があると考えています。

日本酒の価値を「カタチ」にして広める

日本名門酒会の今後のビジョンがあれば、ぜひ教えてください。

卸会社としてできるのは、日本酒の価値を広めていくということ以外にありません。さらに、価値は企画、商品、イベントといった「カタチ」にしなければ広がらない。それぞれの文化を持つ地域の中で蔵元と酒販店、お客様をつなげるのも「カタチ」をつくるということで、会の活動を通した共感のネットワークが全国、そして海外にも広がっています。

もちろんネット販売は必要ですが、地域に根差した酒販店も大事な存在です。会を立ち上げたのは、結果として本当に良かったと思いますね。

-試飲販売などのイベントは、お客様にとって魅力的な「体験」にもなっているのではないでしょうか。

その通りです。試飲販売は当初から企画しているイベントで、まさに原点です。何も変わらないまま、いまだに続いています。イベントでは酒販店の方が、お客様から「ありがとう」と言われるんです。本当に「酒屋冥利」に尽きると思いますが、そのような関係性こそが付加価値なのだと思います。

-2024年は創業140年目を迎えます。次の世代に伝えたいことはありますか。

強いて挙げれば「至誠天に通ず」でしょうか。誠実さを忘れないというのは大切なことです。例えば、飲食店の休廃業が相次いだコロナ禍では我々も大打撃を受けましたが、大変だったのはみんな同じ。あらゆるステークホルダーとつながっていることを実感した中、誠実さとは何かを改めて顧みる機会になりましたね。

-本日は貴重なお話をありがとうございました。