今回の100年企業は、明治32年創業の魚拓荘鈴木屋様です。
前回取材させていただいた大徳家さんからすぐそばで、ご主人同士もご友人とのこと。千倉で長く続けられてきた歴史や、料理へのこだわりについて、四代目当主である鈴木さんとお話をさせていただきました。
時代に合わせて地域の方と協力しながら努力しておられる姿が印象的でした。
取材後にはご厚意により食事と宿泊までさせていただき、鈴木屋こだわりのお料理に一同感動しました。
インタビュアー:山口 勝宏
プロフィール
鈴木 健史
明治32年創業の料理旅館「魚拓荘鈴木」の4代目。
立教大学社会学部観光学科を卒業後、株式会社帝国ホテル入社。
実家である有限会社魚拓荘鈴木屋に戻った後、経営に努める。
目次
丸亀藩から千倉へ、121年の歴史と歩み
―はじめに、お店の歴史について教えてください。
鈴木氏:創業のついては、資料があるわけではなく、明治32年創業の今年で121年目、私で四代目になるということを父から聞いているだけなんです。もっとよく聞いておけばよかったなと思うこともあるのですが。
―初代はどのような人だったかご存知ですか?
鈴木氏:これもあまり記録は残っていないんです。ルーツを調べることが流行った時期に興味をもって調べたのですが、どうやら初代は四国・丸亀藩の下級武士だったようで、官軍歩兵として従軍し、流れ流れて千倉で結婚したのちに住み着いたということらしいです。
―最初から旅館だったのですか?
鈴木氏:最初は料理屋としてスタートしました。武士だった初代が、いつ、どんなきっかけで包丁を握ることになったのかはわかりません。
ですが、当時漁師が遠洋漁業から帰ってくると、陸では連日宴会をする習慣があり、当時から現在の場所で、大きな宴会場に芸者さんをつけて宴会をするような料理屋を営んでいたようです。
そのうちにその魚を買い付けに来る人も宿泊させてあげるようになり、食堂部と旅館部ができあがった、というわけです。
昭和に入ってからはモータリゼーションの中でタクシー会社も経営していたのですが、第二次世界大戦後に解体の命を受けてタクシー会社は切り離されることになりました。今は吸収合併で別の会社名になっていますね。
そうしたことを経て戦後からは旅館部中心となり、現在に至ります。
―経営上の危機などはありましたか?
鈴木氏:戦争が終わってすぐはお客さんがいなくて困ったそうですが、父の頑張りでJTBの契約を取り付けることができました。JTBからの大型バスの団体旅行を受け入れることができるようになってから経営が順調になったので、父や母からは、「JTBさんのおかげでうちがある」「JTBさんへの挨拶は欠かさないように」と言われていました。
―時代による変化はありますか?
鈴木氏:バブルがはじけたあたりから、バスで来て宴会場を使うような団体旅行や、また同時期に会社旅行なども減り始めましたね。
いい時期は、コンパニオンが入るような宴会が一番利益率がよかったのですが、そういうことも減っていきました。
また、そのころ同時に”じゃらん”などがはやり始めて、個人旅行が多くなりました。うちでは、昔から宴会場もあったのですが、部屋食もおこなっていたんですね。そのためスムーズに個人客にも対応することができ、売上単価は減ったもののある程度の黒字を維持することができ、リーマンショックの時も大きな影響は受けませんでした。
3.11とコロナ禍の与えた影響
―3.11の影響はどのようなものでしたか?
鈴木氏:3月の地震以降、4〜5月に計画停電があり、実際には計画停電にはならなかったのですが、計画停電予定エリアにはなっていたので、お客さんはとれず経営的にはリスクがありましたね。風評被害も長く続きました。
団体が減ってきて、個人旅行だけだと売り上げ高が取れず、特に5〜6月の閑散期を埋めるために学校から海女さん体験旅行を受注していました。これが好評で、最初の年は1校、翌年は3校、6校、12校、と順調に増えていたのですが、3.11の放射線への心配から中止になってしまいました。
ああいう行事は一度離れると戻ってこないんですね。もうなくなってしまいました。
1年くらいは風評被害が尾をひきましたね。ただ、3.11のときは東京電力からかなり手厚く補償を受けることができたので助かりました。売上規模に合わせて、順調に補償されたので。あれがなかったら倒産している同業者も多かったでしょうね。
―コロナ禍はやはり経営には影響を与えていますか?
鈴木氏:そうですね。持続化給付金も一回だけですし、規模に関係なく同額で、今年は海水浴場も開かないので。
ただ、お客さんには戻ってきていただいていますし、ビジネスで来ていただくお客さんもいるので、なんとかなっています。
こだわりの味を未来へ。魚拓荘鈴木屋のこれから
―お料理にはこだわりをもっていらっしゃいますか?
千倉には高家神社という、料理の神様が祀られている神社があります。その奉賛会の会長を2代目、3代目がやっていたくらいなので、昔から料理にはこだわっていますね。
特に、土産土法(土地のものを土地の調理法で出す)にこだわっています。
なめろうを料理屋として最初に出したのは大徳家さんだそうです。旅館で舟盛りを出したのは父が最初だと言っていました。父が言っていたことなので本当かどうかわかりませんが、舟盛りを「どっかんづくり」として昔から出していて、人気だったことは事実です。
今でも出している「にいたにた鍋」は、みそ味と酒かすをベースにした、冷えた体を温めるために昔から海女さんが作っていた料理を、父が海女さんから教わって旅館料理にアレンジしたものです。
イセエビは、実は伊勢より、千葉の方が取れるんです。特に千倉周辺でとれるものは浅瀬にいるため見た目が黒く、甘みが強いので、房州エビとしてブランド化して宣伝しました。いまは南房総全体で房州エビとして売り出しています。
今日食べていただく「メガアワビ」も、もともとは千倉地区でブランド化していました。今はうちくらいしかやらず、「メガアワビ」とは言われていないようですが、人気メニューになっています。
―なにか、これは「やらない」と決めていることはありますか?
鈴木氏:洋物をやらないと決めています。実は、一時期他の旅館に泊まって、全体としては和食の中で一品だけシチューなどを出しているのを見て、うちでも出したことがあります。
ただ、やはり魚拓荘鈴木屋としてのイメージに沿わないので、洋物は出さないことにして、こだわりをもって日本食を出すようにしています。
―いろいろな企画を立てていらっしゃいますが、組む相手はどのように決めていますか?
鈴木氏:千倉町だったときは千倉地区の協会でやっていました。
南房総市になってから、市全体で組んだ企画にも取りくみましたが、大きすぎてまとまらなかったですね。狭いエリアの方がまとまりやすいです。狭いと発信力は弱くなりますが、今はインターネットもあるので、特徴がある発信のほうが有利ですね。
一番最初に、商工会議所でホームページセミナーをした時は、大徳家さんと二人だけの参加でした。参加者が思ったよりも少なかったので、ということで、いろいろサービスをしてもらいホームページを作成しました。
その当時、予約を取る機能はなかったのですが、メールなどでの問い合わせは少しずつ入りはじめ、インターネットの力を感じました。
―旅館経営の道のりや、お料理へのこだわりについてお訊きすることができました。南房総最大の漁港として古くから栄えた千倉の地で脈々と受け継がれる歴史を感じられました。
自ら企画を立て、新しいことに取り組んでいく発信力が素晴らしいです。本日はありがとうございました!